2014年5月8日木曜日
サクラ、散る
「行ってきます」が言えなくて、寝顔に話しかける。
帰って来られないかもしれない。
すんなり承諾なんていかないかもしれない。
なあなあに仕事を続けた方がいいかもしれない。
その方が、母さんにこの事を告げるより、平穏に続くかもしれない。
「…らしくねえよなあ。」
うひゃひゃとあげた笑い声は掠れている。
怖いんだ。似合わぬ台詞は飲み込んだ。
昨夜は荒くし過ぎたか、少し眉間に皺を寄せて寝ている邑伺の髪に
何故だか絡んでいる桜の花びらを見つけた。
もう散り切っているだろうに、どこから迷いこんだやら。
摘まんだ桜の花びらを邑伺の頬にそっとおく。
何だか泣いているみたいに見えて、つられて少し悲しくなった。
「じゃあな。」
言えなかった行ってきますは、口の中でつぶやいた。
ただいまがもう一度言えますように。
ーーー
足取り重く、本部へ向かう。
篝くんにはお小遣い100万円。
ポストに入れてきた。
弓場とかまちには連絡しなかった。
連絡先は消した。
うしおには、出る前にデートでもしてやろうかと思ったのに捕まらなかった。バーカ。
邑伺には、邑伺には…─
「あーやべ…まじ既に負けてるっつーの…。」
指先は震えた。心拍数はあがった。
それなのに体温は酷く低く感じられる。
皮膚の下で血がざわめく。
自分が何を感じてるのかは分かってる。そう、怖いんだ。
今までただの一度も、子供の頃からでさえ、
仕事の時に怖いと感じたことなんてなかったのに。
だって、いつ死んだって良かったんだ。
なのに今は、怖くて怖くてたまらない。死にたくない。
初めてそう思った。
杞憂かもしれない。
何時ものように甘えた口調で、いや、少しだけ畏まって、
結婚するんだ。普通の仕事がしたいから、今の仕事は辞めたいんだ。
そう真摯に話せば何のことはなく、普通の母親のように許してくれるかもしれない。
「なーんて…」
そういえば、あの人の目が笑ったところを見たことがないな。
そんな余計な情報をこのタイミングで思い出して苦笑する。
「はは…どんだけビビってんだっつーの。」
いつものナイフ一本。
いつでも取り出せるようにして、扉を開けた。
やっぱりフル装備でくりゃ良かったなーなんて。
「ただいま、母さん。」
形のいい赤い唇が弧を描いて俺を迎え入れた。
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真っ白い肌と髪。
真っ赤に濡れた唇と、凍りついた青い瞳。
対極の色彩が、禍々しく見える。
「ーそう。残念ね。」
少しだけその呼称通り母で居てくれる事を期待したその返事は、予想した通りのものだった。
その言葉と同時に、脇に控えていた男ージャックーが前に出る。
「……あー…俺、今まで結構いい子にしてたつもりなんだけど、それでもやっぱダメ?ウチの事売ったりする気もねえんだけど。おめでとうは、くれない?」
「知っているでしょう?母さんね、家族がバラバラになるのは悲しいのよ。」
「……この家族ごっこのが、よっぽど哀しいけどな。」
「…ほら、悪い子ね。」
「言ったろ?俺は欲しいものが出来たんだ。幸せになりなさい。そう言ったのはアンタだ。邪魔すんなら、左様ならだ。」
「冷たいのね。母さん哀しいわ。」
「…ごめん。」
「仕方が無いわ。左様なら、七尾。私の愛しい子。」
その言葉を合図に、ジャックが剣を抜いて斬り掛かってくる。
ジャック一人なら、ギリギリ勝てるかもしれない。どのみち母さんは、昔本当の家族を失った時に脚をダメにしているから、戦闘はできない。
僅かな勝機にかけて、ナイフの柄を掴んだ。
ーーー
ポタリポタリと雫が水面を打つ音だけが響く。
部屋は赤く染まっていた。ジャックは死んだ。この右腕と引き換えに。
母さんも死んだ。思ったより静かに、微笑んでいるようにすら見える表情で。
「……ごめんな。」
返事のない二人に話しかける。不思議と心は凪いでいた。
家族だと思っていたつもりだったのに
「…ああ、確かに冷えかもなあ、俺。」
ごめんな。もう一度呟いて、もう帰ろうと歩き出した体が不意に痙攣した。
何が起きたのか分からず虚空を仰ぐ。
背後から声がした。
「…アンタ、なんで、どうして母さんを。」
「ク…イン…」
「答えてよ!!!」
悲鳴のような叫びに、だったら刺すなよ。と呑気に思う。
「何でこんな事……」
「言って…たろ、お前だって。普通の生活してみて、え…って」
お嫁さんになりたい。だからアンタ旦那さんになってよ!と無理矢理誓いのキスをされた時の事を思い出して、おかしくなる。走馬灯ってやつかな。
「だからって…母さんを裏切ってまで…こんな…」
背後から串刺しにされたまま動けないが、震える声は、恐らく泣いてるからだろう。
「…お前は優し、いな…姉ちゃ…おれ、と違っ…」
声が掠れてもう出ない。目も見えなくなってきた。
ピチャリと血だまりを踏む音がして気配が増える。
多分キングだ。どのみち勝ち目はないな。
嗚呼、帰れない。
帰れない。
あの日々に。あの場所に。
帰りたい。
帰りたい。
肌の下で血がざわめく。戻る無い腕の感覚で空を掴む。
「さよ…な、ら、だ……ゆう…」
呟いた声を掻き消すようにクイーンが叫んで、心臓を切り裂いた。
喉から溢れ出した鮮血は、何故か錆ではなく、桜の香りがした。
ーーーーー
ごぼり。息絶えた七尾の唇から溢れたのは、鮮血ではなかった。
零れる桜色が、部屋の中を舞う。
「何…これ…」
「下がれ。"喰われる"ぞ。」
目の前の光景に放心する女は、男の言葉に急いで七尾の心臓から刀を引き抜いた。
刀を抜いた傷口からも桜が溢れる。
今や七尾の体からあふれ出た桜はすっぽりと彼の体を包み込み、、大きな一つの蕾と成っていた。
「…アレだろう。」
「…なんでよ。この子は死んだわ。心臓は外してない。」
「…知らんよ。…おでましだ。」
(力尽きめも)
メリメリと嫌な音を立てて開いた蕾から出てくる七尾。
千切れていた右腕は治っているが黒い毛に覆われて、鋭い爪が、少し触れただけの花弁を引き裂く。
喉はぐるぐると音を立てて、黒い耳が顔の横ではなく頭についている。
揺れる七つ尾。闇堕ち七尾。
結局クイーンとキングも殺す。全員死んで動くものがなくなったら、先に死んだ母さんたちもバラバラに引き裂いて、食べ始める。
ーーーーー
「やれやれ。ホンマ、手のかかる人やわぁ。どうせなら蛇も食ってまえばええのに。
したら僕らの仕事も終わりなんやけどねェ?僕はアンタは嫌いや。
ずーっと昔、あの家におった時から。まあええわ。丁度暇やったし。
どうせ本調子やないやろ?痛めつけたりますよ。」
ーーーー
『またアレを使ったのね?やめときなって行ったでしょ。血塗れだし、仕事人失格って感じだし?あたしみたく完璧にやんなきゃ』
「…分かってるよ、姉ちゃん」
あの時みたいに繋ごうとした手は、温もりに包まれることはなく空を掻いた。
目覚めたのは血の海の中だった。鉛のように重い頭を持ち上げて周囲を見渡す。
部屋中が、壁も床も天井も、全てが赤く染まっている以外、何もなかった。何も。
母さんもジャックもクイーンもキングも。
この血の海がなければ、夢を見たのだろうと思う程に。
「母さん……姉ちゃん……にいちゃん……」
呼んでも返事はない。
次にどうすればいいのか分からずただ地面に座り込んだまま両手を床についた。
両手を。
ジャックに斬られてなくしたハズの右腕はそこにしっかりとついていた。
痛みはない。感覚はある。
確認した身体は五体満足。大きな傷もなかった
そもそも自分はクイーンに心臓を貫かれたハズだ。最後の感覚はしっかり覚えている。
なら、此処は。
「…そっかぁ。俺、死んだのか。……はは…もっと地獄らしい地獄とか、死神が迎えに来るとか、完全に無に帰すとか、そんなもんだと思ってた。…それとも四十九日ってやつ?」
そっか。なら最後にもう一度会えるだろうか。
心臓を切り裂かれる直前に別れを告げたはずだった、あの人に。
「…帰ろ。…帰ろう。…帰るんだ。」
そう繰り返すうちに、もう帰ることのなくなったこの家が恋しくなった。
「はは…そうだな姉ちゃん…俺失格だったな。ごめん。ごめんな…ごめん。」
浮かぶ思い出に、堰をきって雫が零れる。
少し乾いて粘りつく赤は、経った二つの目が零す透明じゃ、とても薄まりそうにはなかった。
ーーー
血にまみれ重い身体を持ち上げて漸く立ち上がると、出口へと向かう。
入り口にある巨大な鏡に自分の姿が映って足を止めた。
「…これで会いに行ったらあいつ絶対ちびるよな。シャワー……おばけってシャワー浴びられんのかわかんねえけど…」
シャワーは冷たく、熱かった。
感覚で変わったところは何もなくて、まるで生きてるみたいだった。
シャワーを浴びて着替えると、いよいよ夢だったような気になった。
あの部屋に戻ろうか。少し悩んで、辞めた。
帰ろう。居たかった場所へ。
出口の扉は、簡単に開いた。
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